おめでとう

おめでとう

 ゼルダは朝から、とても忙しく立ち回っていた。
 起きて着替えたあとにすぐ、パンの生地を練る。ひとまとめにして寝かせたあと、大鍋に水と鶏の骨とを入れ、暖炉に吊るして火を入れる。
 ふつふつと沸いたところでアクを丁寧に掬いとり、残りの具材を追加する。
 塩漬け肉に切れ目を入れ、香草を挟んで紐でくくる。それを暖炉の中に渡した金網の上に置く。
 燻製したサーモンと薄く切った玉ねぎを、油と酢と塩と少量のワインとで和え、味をなじませる。
 そうこうしているうちにパン生地が発酵してくるので、ふくらみ具合を確かめて切り分ける。丸の形に成形する。もう一度発酵させているあいだに、小鍋に砂糖と水を分量通りにきっちりと測り入れ、カラメルソースを作る。
 リンクは家を出ていった。
 今日は村の人たちと一緒に、森の見回りをしてくるという。弓も矢も、それなりにしっかりとしたものを持っていった。
「うまくいけば、兎や鹿が獲れるかもってさ」
「まだ冬眠中じゃないんですか」
「どうだろう。村長さんは、今年は雪解けが早いから、結構期待しているみたいだけど」
 弦の張りを指で弾いて確かめながら、リンクは言った。
 本人に自覚があるかは分からないが、そういう仕草をするとき、リンクの顔は自然と引き締まる。
 日頃は忘れがちだが、彼が武器を手にして戦う人なのだということを、ゼルダはあらためて思い出す。
「夕方には終わるらしいから、だいたいそのあたりだと思ってて」
 ブーツの紐を結い直し、リンクは立ちあがった。
「ちゃんと帰ってきてくださいよ」
「もちろん」
 と、リンクは言った。
「今日は、俺の誕生日だからね」
 そうですよ、とゼルダは微笑んだ。
「今日は、あなたの誕生日ですから」

「誕生日がいつなのかは、覚えてなくて」
 リンクにそう告げられたときの衝撃を、ゼルダは未だに忘れらない。
 厄災を封印してからはじめて迎えた、ゼルダの誕生日だった。
 リンクは心と言葉を尽くしてゼルダを祝福したあとで、こともなげにそう言ったのだ。
 ゼルダはあまりのことに、言葉が出なかった。あなたのお誕生日はいつですか、という質問をした自分の迂闊さを後悔したところで、もう遅かった。
 ゼルダが黙ってしまったので、リンクは慌てたように付け加えた。
「俺は全然気にしてないんだ、本当に。忘れたままのことは、他にもいっぱいあるし。歳がゼルダと一緒だっていうのはインパたちが教えてくれたから、それだけ分かってればいいかなって、そのくらいで」
 その口ぶりは、それがどれほど悲しいことなのかをリンク本人がまったく分かっていないのか、如実に表していた。
 言葉を重ねられるほどに悲しみが増して、ゼルダの胸はひどく痛んだ。気がついたときには涙があふれ出ていて、どうにも止まらなくなっていた。
「泣かないで。いいんだ。大丈夫だから」
 リンクは何度もそう繰り返しながら、ゼルダを抱きしめた。
 言葉に偽りがないことは分かったし、目元を拭ってくれる指はあたたかかく、なだめるようなキスは優しかった。
 しかしその優しい人が、自分がこの世に生まれた日を知らず、また知るすべすら持たないのだという事実は、それから後もずっと、ゼルダの心に暗い影を落とした。

 ゼルダがふいに天啓を得たのは、その半年後のことだ。
 古代研究所で、シーカーストーンの調整をしていたときだった。
 内部データをチェックしていたプルアが、ゼルダにこう尋ねてきた。
「姫さま。履歴、どうしよっか」
「履歴?」
 聞き返したゼルダにプルアが見せたのは、シーカーストーンが映し出すハイラルの地図と、その上に描かれた緑色の線だった。
 線はあちこちを行きつ戻りつしながらも、広大なハイラルの隅々までを埋め尽くすように伸びていた。
「剣士クンの行動履歴よ。アイツもまあ、よくやったわよ。行ってないところなんてないんじゃないの」
 アハハ、とプルアはおかしそうに笑った。
「あんまり詮索しちゃアレかなーって、細かいところは見てないんだけどネ。容量自体は軽いから、残しといてもいいんだけど。どうする?」
「私に聞かれても困ります」
 プルアの言う通り、個人の行動の記録など、他人がとやかく口を出すものではない。ゼルダはやんわりと断ったが、プルアは譲らなかった。
「どっちでもいいって言うに決まってんじゃん、アイツ。姫さまのほうが気になるデショ?」
 ほらほら、とせっつかれて、仕方なくゼルダはデータを確認した。
 地点を指定すると、座標と日時が表示される。いついつにその場所を通過したという、明確な記録だ。
 その瞬間、そこに確かにあったという記録。
 (あっ)
 と、ゼルダは息を飲んだ。
 履歴をさかのぼり、線の起点を探す。
 それは始まりの台地の中ほどにある、小さな洞窟にあった。
 回生の祠。リンクが百年間眠り、そして目覚めた場所。
 そこに記された日付を、ゼルダはしっかりと脳裏に焼き付けた。
 
 やがてその日を迎えるにあたり、何をすべきかというのをさんざんに考えた挙句、結局ゼルダは、何もできなかった。
 かえって怪しまれてはいけない、という思いが強すぎて、日頃とまるで変わらない一日を過ごしてしまった。
「今日を、あなたのお誕生日にしたくて」
 やっとのことでそう口にしたのは、二人してベッドに横になったあとだった。
 ゼルダは懸命に説明した。
 シーカーストーンの履歴、そこに示された日付。リンクの意向を無視していることも、記憶を失うに至った遠因であるところの自分が決めるべき立場ではないことも、包み隠さず伝えた。
 リンクの顔は、とてもではないが見られなかった。
 彼に背を向けて横になったまま、それでも、とゼルダは言った。
「私、祝福したいんです。あなたが私にそうしてくれたように。あなたという命が始まって、繋がって、いまここにいてくれることを、私も感謝したいんです」
 リンクはしばらく黙っていた。
 息すら聞こえてこなかった。
 このまま消えてしまえればいいのに。そう思ってうずくまったゼルダの背中に、リンクの手が添えられた。
「始まりは、ゼルダだ」
 それはリンクものとはとても思えないほど、小さく、かぼそい声だった。
「ゼルダが俺を呼んでくれた。それで、目が覚めた。だから今の俺は全部、ゼルダから始まってる」
 手は背中から二の腕をつたい、肘に触れ、手首を大事そうに撫でたあと、ゼルダの手に重なった。指が絡まる。
「今日が、誕生日だったんだ」
 夜だというのに、リンクの手のひらはとても熱かった。
 ゼルダは泣くまいと必死で、それでもまばたきをするたびに少しずつ、雫が目からこぼれ落ちていった。
「お誕生日おめでとう、リンク」
 みっともなく震えた声は、リンクの唇が吸い取ってくれた。

 それが、ちょうど一年前のことだった。

 あとはデザートを残すのみとなった。卵と牛乳と砂糖を混ぜ合わせて、蒸し器で蒸す。さほど時間はかからない。
 少し休憩しようと、ゼルダはエプロンの腰紐をゆるめた。気分転換がてら、庭に出る。
 いい天気だった。
 太陽の光をいっぱいに浴びた村の景色は、すっかりと冬から春に変わっている。
 ゼルダは池のほとりにある石の上に腰を下ろした。風がさっと足元を通り、水面を揺らしながら抜けていく。
(こんな日だったのかしら)
 あの日も、こんなふうであったのかもしれない。
 穏やかで、静かで、人々はいつも通りの毎日を送っていて。
 それでも厄災は世界を確実に蝕んでいて、それを阻んでいたゼルダの神秘の力も限界がきていて、そして、彼が目覚めた。
「リンク」
 もう何百回、何千回呼んだのか分からないのに、あらためてつぶやくだけで、胸にさまざまな思いがこみ上げてくる。
 ふいに涙が出そうになって、いけない、とゼルダは強く自分に言い聞かせた。泣くのには、まだ早い。
 リンクが帰ってきたら、成果のほどを聞こう。
 張り切って作った夕食を二人で食べる。今年はきちんとプレゼントも用意した。手帳のための、新しい鉛筆。今のものはあの旅の当初から使っているというが、もうだいぶ痛んでいる。喜んでもらえると嬉しいが、そうでなくても、無理やり押し付けるつもりだ。
 そして今年こそ、真正面から笑顔で伝えよう。

 ――お誕生日おめでとう、リンク。
 
 泣くのは、それから後でいい。

〈了〉