120光年の旅

 記帳を終えると、あれ、とジュンは首を傾げた。
「連泊?」
「難しいですか」
 リンクは羽ペンをインク壺に差し込む。
 宿泊予定日の欄に書かれた「三」の文字は、まだ十分に乾ききっていない。
「いや、大丈夫だけど。めずらしいね」
「せっかくなので、ゆっくりしていこうと思って」
 ジュンはリンクから宿帳を受け取り、すばやく紙を挟み込みながら、そっか、と笑った。そうだよ。せっかくなんだから、ゆっくりしてけばいい。
 この間と同じ場所を選んで、荷物を置く。
 まだ時間が早いからか、他の客の姿はなかった。熱心にほうきをかける音に混じって、羊がのんびりと鳴いているのが聞こえる。
 静かな午後だった。
「もうちょっとここにいるんなら、イチカラ村の大工さんに会えるかもよ。知り合いなんだって?」
「エノキダですか」
 エノキダは腕のいい大工だ。
 ここからほど近いところに、近年、イチカラ村を立ち上げた。その際、あれこれと手助けをした縁がある。
「手紙で幔幕の新調を依頼したんだけど、すぐに仲間を連れて来るって、昨日人づてに連絡があったんだ。仕事が早いっていうのはいいね。で、ついでに、何だっけ、ほら、灯台のところの若い人。グラ、グラ何とかっていう……」
 リンクは驚いた。
 灯台のところの若いグラなんとかといえば、例の、いい歳をした息子しかいない。
「――グラネット」
「ああ、そうそう。その人も、帰省ついでに手伝ってくれるらしくて。ベッドを用意しておいてくれってさ。忙しくなるね」
 リンクは想像する。
 もう数日すれば、今は静かなこの馬宿に、杭を打つのみの音が鳴り響くだろう。
 柱を立てて梁をめぐらせ、骨組みをつくる。幕を張る。
 その下に人が集まる。馬宿一家、あちこちから訪れる旅の客、なじみの大工たちと風変りな友人。
 にぎやかな輪の中の隅に、自分たちも加わっている。
 派手ではないが、楽しいひとときになるに違いない。
 リンクはつぶやいた。
「……カンヲエテハマサニタノシミヲナスベシ」
「何だい、それ」
「新手のおまじないらしいですよ」
 難しい顔をするジュンに手を振って、リンクは外に出る。
 よく晴れていた。
 色とりどりの葉のあいだをすり抜けて、陽光がまっすぐに地面を差している。五徳ごとくに載った料理鍋の下で、火があかあかと燃えている。
「リンク」
 どこにいるかな、と思うより先に、背中から声がした。
 振り返ろうとすると、待って、と制される。
 反射的に足を止めると、後頭部を指でつつかれた。
 何をされるのか、おおよその見当はつく。リンクは黙ってされるに任せた。
「髪に、葉が付いていました」
 ほら、と乾いた黄色い葉を見せながら、ゼルダが顔を覗き込んできた。白い頬が、かすかに色づいている。
「ありがとう」
 言いながらリンクは、ゼルダの手を取る。
 一瞬、このままキスをしようかとも思ったが、やめておいた。
 勢いにまかせてしまうのは、いかにももったいない気がした。そのまま並んで歩きだす。
「さきほどツユさんが、よければ明日、トンボの群生地に行かないかって。リンクの都合がつけばとお返事したのですけれど、どうでしょう」
「いいよ。どのあたりなんだろう」
「ツユさんのおっしゃるには、ここから北に向かってすぐの丘の上で――」
 ふいに後ろから風が吹いてきて、ざあっと足元の草が揺れた。
 先へ先へと急かすように、風は二人の側を駆け抜けていく。
 木々がざわめいて、その間から、三羽の鳥が飛び立った。めいめいに、好きな方角へと散っていく。
 尾根に沿って、木立の繁る峠を下っていく。
 土を踏みしめただけの道は細く、複雑に曲がりくねっていた。
 ここを越えるとアッカレの雄大な平原が広がっているはずだが、今はまだ見えない。
 リンクはぎゅっと力を込めて、ゼルダの手を握り直した。
 指と指を深く絡めたあと、どちらからともなく身体を寄せる。
 目的地は特になかった。
 ゼルダも、どこにゆくのかとは聞かなかった。

 いつまでもどこまでも、ゼルダとなら歩んでいける。そんな気がした。

〈了〉